• アラン・ムーア×エディ・キャンベル 柳下毅一郎 訳 『フロム・ヘル[新装合本]』

    アラン・ムーアの記念碑的名作。鬼才がモノクロームで描く、切り裂きジャック事件の「全真相」。

    舞台は19世紀末。ロンドンの貧民街に、娼婦たちを切り刻む謎の殺人鬼が現れる──。ヴィクトリア朝末期の英国社会を丹念に再現しつつ、サスペンスとイリュージョンに満ちた物語世界が展開。モノクロームの画面や、史実を緻密に再構成したプロットなど、ムーアが『ウォッチメン』とは異なる極北を目指し、自作のなかでも特に達成度の高い一作と誇る作品。巻を閉じた後も読者の脳裏に、陰惨な世紀末ロンドンの記憶が焼きついているだろう。

    『フロム・ヘル[新装合本]』

    B5判並製カバー装

    総592頁

    定価5,060円(税込)

    ISBN978-4-622-08859-2

  • アラン・ムーアは世界を解く訳者から一言

     アラン・ムーアは現代アメリカン・コミック最大の革新者の一人である。一九八六年に発表されたムーア作、デイヴ・ギボンズ画による『ウォッチメン』はアメコミのイメージそのものを書き替えた。タイツをはいた筋肉マンたちが殴りあう原色で塗り分けられた単純な子ども向けの世界と思われていたコミックが、実は微妙なニュアンスに満ちた複雑かつ精巧な大人でも楽しめるものだということを知らしめたのだ。深いテーマ性、複雑精妙な構成、緩急自在なストーリーテリングを兼ね備えた『ウォッチメン』は、それまで誰も見たことがなかった「大人も読める」アメコミだった。『ウォッチメン』はアメコミを大人のものへ成熟させたのである。

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    アラン・ムーアは世界を解く訳者から一言

     アラン・ムーアは現代アメリカン・コミック最大の革新者の一人である。一九八六年に発表されたムーア作、デイヴ・ギボンズ画による『ウォッチメン』はアメコミのイメージそのものを書き替えた。タイツをはいた筋肉マンたちが殴りあう原色で塗り分けられた単純な子ども向けの世界と思われていたコミックが、実は微妙なニュアンスに満ちた複雑かつ精巧な大人でも楽しめるものだということを知らしめたのだ。深いテーマ性、複雑精妙な構成、緩急自在なストーリーテリングを兼ね備えた『ウォッチメン』は、それまで誰も見たことがなかった「大人も読める」アメコミだった。『ウォッチメン』はアメコミを大人のものへ成熟させたのである。

     その作者こそアラン・ムーアである。アメコミでは画とストーリーの分業制がとられているので、日本で言うならばムーアは「原作」と呼ばれる立場だ。だが、ムーアはただ吹き出しの中身を書いているだけではない。ムーアの脚本ではコマ割りから絵の中身までが事細かに指定されている。いわば脚本兼監督で映画を撮っているようなものである(作画は俳優の演技に相当するだろう)。その意味では、ムーアはコミックの真のクリエーターなのである。

     ムーアは『ウォッチメン』の直後、「次には『ウォッチメン』からもっとも遠いものを作ろう」と考えた。そこから生まれたのがスーパーヒーローも出てこない歴史コミック『フロム・ヘル』である。ムーアは十年近くをかけて重厚長大な物語を書きあげた。『フロム・ヘル』はヴィクトリア時代のロンドンを騒がせた切り裂きジャックによる娼婦連続殺人事件にまつわる物語である。犯人は結局つかまらず、未解決のままで終わった事件は今なおマニアの興味を惹きつけ、次々と「真相」や「真犯人」が発掘されてくる。だが、ムーアは誰も知らない「真相」を描こうとしたわけではない。ムーアが目指したのは、切り裂きジャックの連続殺人からひとつの社会の姿をまるごと描き出すことだ。女王から最下層の娼婦まで、ヴィクトリア時代ロンドンに生きるすべての人々が切り裂きジャックの殺人を通じて結び合わされる。それだけではない。そこにはアトランティスの神話的建築家から二十世紀の連続殺人鬼までが登場する。切り裂きジャックの殺人は時空間の特異な結節点となり、すべてをつなぎ合わせるのだ。ムーアの言葉を借りれば「殺人を解決するために世界そのものを解決する」のである。

     あたかも万華鏡を覗きこんだときのように、どんどんと世界は広がっていく。当代最高のコミック・アーティストにして現代の魔術師(これは比喩的表現ではない)がお送りする眩暈のような読書体験をお約束する。

    (柳下毅一郎)

  • 作品『フロム・ヘル』とは

    アラン・ムーアによる傑作グラフィック・ノベル。彼が『ウォッチメン』とは異なる極北を目指して創作し、自作のなかでも特に達成度の高い作品と自負する記念碑的作品である。ノンフィクション・ノベルに奇想の数々をはめこんだかのような異例の形式を採用し、彼の本領たるダイナミックな構成力、エニグマティックで奥行きのある世界観・人間観が発揮されている。

    Alan Moore on FROM HELL>

    テーマについて

    殺人とは小さなアポカリプスのようなものだ……そこでは社会的な制約の壁が決壊し、恐ろしく力強く粗暴なるものが動き出す──それは社会へと影響を及ぼし、さざ波を立てうるような何かだ。殺人のように人間的で強烈な一個の出来事を十分細密に見つめれば、それが起きた世界全体についてのいくつかの大きな解釈を提示できそうだと気づいた。【Saxon Bullock, “The House That Jack Built – An Interview with Alan Moore”より】

    殺人の場面の描写について

    私にはわかっていた。読者とともにミラーズ・コートのその部屋に入り、リッパーがそこで過ごしたのと同じだけそこにとどまり、その2時間を凄愴きわまる仔細さで再現しなければならないと。……それはあたかも20世紀が生まれた場所だった。1888年11月の、ミラーズ・コートのあの小さな部屋。
    これまで切り裂きジャックの連続殺人を扱った作品のほとんどはまるでポルノグラフィーだった──陳腐な道具立てに溢れていて、それがたんに演出のため、話を盛り上げるために使われている。ホワイトチャペルの陰惨な裏通りで女性たちが殺された事件を語るのに、それではまったく不当だと思うのは私だけではないだろう。【以上、出典同上】

    ホワイトチャペル連続殺人の“史実”をストイックにたどりつつ再現されているのは、十九世紀末の英国社会。ホークスムアの建築とロンドンの街、フリーメイソン、君主制、階層間の極端な格差、などの要素が組み込まれている。スラム街の娼婦から女王まで、すべての階層に充満する不安とパラノイアの底に、技術革新と大量殺戮の二十世紀が準備されつつある時代。それらの要素の結節点として一つの殺人事件を描きながら、歴史と神話の構造への畏怖と眩暈が表現される。

    『フロム・ヘル』の時代と社会

    「わたしには、多くの点で一八八〇年代は二十世紀の種をまかれた時期だったように思える。政治とテクノロジーだけの問題ではなく、芸術と哲学の分野でも。一八八〇年代が二十世紀の本質をはらんでいたという考え、そしてそれと同時にホワイトチャペル連続殺人こそが一八八〇年代の本質をとらえていたという思いが本書の中心的アイデアとなっている。」(補遺I「各章の註解」より)

    著者アラン・ムーア自身が巻末の註釈に記しているように、本作においては物語の背景となる時代と社会自体も最重要テーマの一つとなっています。本作を読み解くための手がかりとして、巻末の註釈から著者自身が「ヴィクトリア時代」の風潮・風俗にふれている部分を一部抜粋しました。ヴィクトリア朝の安定した治世に潜むパラノイアと自己欺瞞、女性観のゆがみ、階層差と極端な貧困の存在などが意識されています。

    「ヴィクトリア時代の人々が同時代の娼婦たちのことを同様に「喜びの娘たち」と呼ぶのは、残念ながら皮肉ではなく鈍感さのあらわれだ。ヴィクトリア時代人は女性たちを売春に追いやる社会状況を無視するほうが都合がいいことに気づき、代わりに、蔓延する色情狂がその理由だと考えた。つまり、女性は好きで売春しているというのだ。」
    「ヴィクトリア時代英国でのショート売春の値段は事実三ペンスである。たいていの場合両者立ったまま壁によりかかった姿勢でおこなわれるので「三ペンス立ちマン(thrupenny upright)」と呼び習わされていた。」
    「ドルーイットは断固たる女権論者だったが、そうした主張だけでも階級が固定されたヴィクトリア時代英国においては変人とされるに足る。ホモセクシャリティは当時は感情と性的嗜好に影響する一種の病気と考えられており、単純に同性を好んだだけでもヴィクトリア時代の目には「性的に狂っている」証拠と見られかねなかった。」
    「サー・ウィリアム・ガルとヴィクトリア女王との会話は創作であり、現実とはかすかなつながりしか持たない。この会話をここに含めたのは、この時代の君主制とフリーメイソン組織それぞれが抱いていた恐怖心と恐怖症についていくばくかの背景を示すためである。ヴィクトリア女王は長い治世のあいだ、フランス革命流の蜂起とギロチン騒ぎを病的に恐れつづけていた。」
    「ポリーが試みているのは、この物語の時代のもっとも安価な一夜の過ごし方だった。屋根と休息を求めてきた者は、一ペニーの料金で立ったまま並んで壁によりかかり、前に倒れないように紐に支えられて眠ることができた。朝の目覚めの合図として、宿屋の主人が紐をほどくと全員床に崩れ落ちる。ここから英語の慣用表現「洗濯紐にとまっても眠れそうなくらい疲れている」という言葉が生まれた。」
    「アニー・チャップマンは丸一日ビスケットのくずしか食べていないと述べるが、これはイーストエンドの女性としてはごく普通の食事である。ジンとビスケットのくずだ(ビスケットくずは、当然、割れてないものよりも安く買えるだろう)。この恐ろしい情報はメイヒューの『ロンドン路地裏の生活誌』より得た。ヴィクトリア時代ロンドンの日常生活に興味を持つ人すべてに、必須の資料としてメイヒューの本をお薦めしたい。」

    ムーアはコミックという表現形式の特性として、『一つのコマを読み解くのにかける時間が読者に任されていること』と、『作者が一コマの前面、背景、その中間、左側、右側といった構成や内容の細部を精緻にコントロールできること』を特に意識しているという【The Onion A.V. ClubによるインタビューおよびAlan Moore's Writing for Comicsより】。たくさんの情報が込められた一コマに読み手の目がどのくらい滞留すべきかは、コマ割りをとおして指示するよりも、読者にゆだねる。コマを一つ一つ「読む」コミックなのだ。
    各コマに込められた意味とニュアンスを読み解きながら、完成された物語世界に浸りたい。

    エディ・キャンベルによる画はほとんどペンとインクだけを使い、エッチングのように線を多用した独特のタッチ。物や人物がほとんど記号化されない。ムーア&キャンベルの絶妙のコラボレーションにより、狂気の犯人しか知らないはずの場面までが、まさに圧巻の幻視力をもって描き出される。
    十九世紀末ロンドンの陰惨な情景が、巻を閉じた後も目に焼きついているだろう。

    巻末には「補遺I」として各ページごとの註解、および「補遺II」として切り裂きジャックをめぐる言説をテーマにした短編「カモメ捕りのダンス」が付録されている。これらも、著者のねらいや本編の至るところに埋め込まれたエピソードを味わい尽くすためには必読。そこに、再読、再再読の愉しみまで織り込まれている。

  • 著訳者紹介

    [作]アラン・ムーア Alan Moore

    1953年、イギリスのノーサンプトンに生まれる。コミック原作者として本作『フロム・ヘル』のほかに、『ウォッチメン』、『プロメテア』、『スワンプシング』、『バットマン:キリングジョーク』(以上、邦訳:小学館集英社プロダクション)、『Vフォー・ヴェンデッタ』(邦訳:小学館プロダクション)、『リーグ・オブ・エクストラオーディナリー・ジェントルメン』(邦訳:ジャイブ)、『トップ10』、『ミラクルマン』(以上、邦訳:ヴィレッジブックス)、Lost Girls(Top Shelf Productions)、Neonomicon(Avatar Press)など、強烈な個性を放つ作品群を世に送り出し、多くのコミック作家や他分野のクリエイターたちに影響を与えている。『ウォッチメン』がヒューゴー賞を受賞(コミック作品の受賞は初)するなど、彼の作品はジャンルの枠を越え、世界的に高い評価を受けている。小説にJerusalem(Liveright)、Voice of the Fire(Top Shelf Productions)がある。

    [画]エディ・キャンベル Eddie Campbell

    1955年、スコットランド生まれのコミック作家。シカゴ在住。ほかの作品にBacchusシリーズ、半自伝的作品Alecシリーズ、The Black Diamond Detective Agency(First Second Books)、A Disease of Language(アラン・ムーアとの共作、Fanfare)、The Truth Is a Cave in the Black Mountains(ニール・ゲイマンとの共作、William Morrow)などがある。

    [翻訳]柳下毅一郎 やなした・きいちろう

    映画評論家・翻訳家。1963年生まれ。出版社勤務ののち、映画評論家に。訳書に、バラード『クラッシュ』(東京創元社)、ウルフ『ケルベロス第五の首』、ラファティ『第四の館』(以上、国書刊行会)、スラデック『蒸気駆動の少年』『ロデリック』(以上、河出書房新社)、ムーア/ウィリアムズ『プロメテア』(全3巻、小学館集英社プロダクション)など。著書に『新世紀読書大全 書評1990-2010』(洋泉社)、『興行師たちの映画史』(青土社)、『殺人マニア宣言』(ちくま文庫)、『皆殺し映画通信』(カンゼン)など。編書に『女優林由美香』(洋泉社)など。

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